京都刀剣ご朱印めぐり- 豊国廟へ (2016.9.30) [京都]
豊国廟をWebで検索しても場所がわからず、うろうろした挙げ句、交番で
場所を教えていただきました。
京女のある女坂をひたすら登って行くらしい。
「歩いて行かれるのですか?気を付けて行って来て下さい。
気を付けて行って来て下さいね」と。
何かあるんだろうか。。。
ひたすら歩く事30分くらい。豊国廟参道とある。
新日吉神社が見え、そこから行くのかと思っていたらそうではなくて、
まだひたすら坂を登って行きます。
そして社務所が見えて来たのでお尋ねして、そこでご朱印もいただきました。
従来のご朱印も授与していただけるとの事でしたので、
通常のと限定のものをいただきました。
こちらの豊国廟は、豊国さん(ほうこくさん)こと豊国神社の管理のようです。
拝観料100円を払って登ります。
往復30分くらいかかるとのことですが、時間は大丈夫ですか?
と尋ねて下さっていました。
照明がないそうで、日暮れまでに降りて下さいとのことでした。
ここから階段です。
ひたすら階段を登ります。全く風がなく、途中で藤森さんで
いただいてきた不二のご神水を飲みながら登って行きました。
少し開けたところからまだ階段があります。
二つ目の階段の中頃から、凄い圧迫感を感じました。
相性にもよると思いますが、霊感の強い人はしんどいと思います。
たぶん、私と相性があまり良くないようです。
藤森さんのご加護があったのかもしれません、最初に藤森さんへ行ったのも、
偶然ではなかったのかもしれません。不二の水も持たせてくださったのかなあとも
思いました。実は藤森さんは、私の産土神様に当たります。
とにかく山頂まで昇り、お参りして階段を再びおりました。
やはり階段を降りるごとに、圧力が弱くなってきていました。
秀吉公のお墓が豊国廟が京女の側にあるわけですが、
大変失礼ながら、秀吉公にはたくさんの側室がおられて、
京女は女性の学校、不思議なご縁があるのだろうかと。
そして、新日吉神社に向かいました。
新日吉神社がそこにあるのには、それなりの理由が後から
調べてわかりました。
・太閤の夢の跡
このブログによると、
豊国廟ができた頃は、豊国廟ー豊国神社ー祥雲寺ー方広寺ー西本願寺と並んでいました。
その後、徳川家康が政権を取った際に、それを分断というか、
破壊するような事が行われています。
その後に、新日吉神社や妙法院、智積院、西本願寺の隣に東本願寺、
となっています。
それほどの事を行うほど、人の業が深いのかと。
豊国廟が復活されたのは、明治の時代だったそうです。
---
これは後日談ですが、京女の方が豊国廟での怪談を経験されています。
・京都府 豊国廟
行く前に読まなくて良かったです。
場所を教えていただきました。
京女のある女坂をひたすら登って行くらしい。
「歩いて行かれるのですか?気を付けて行って来て下さい。
気を付けて行って来て下さいね」と。
何かあるんだろうか。。。
ひたすら歩く事30分くらい。豊国廟参道とある。
新日吉神社が見え、そこから行くのかと思っていたらそうではなくて、
まだひたすら坂を登って行きます。
そして社務所が見えて来たのでお尋ねして、そこでご朱印もいただきました。
従来のご朱印も授与していただけるとの事でしたので、
通常のと限定のものをいただきました。
こちらの豊国廟は、豊国さん(ほうこくさん)こと豊国神社の管理のようです。
拝観料100円を払って登ります。
往復30分くらいかかるとのことですが、時間は大丈夫ですか?
と尋ねて下さっていました。
照明がないそうで、日暮れまでに降りて下さいとのことでした。
ここから階段です。
ひたすら階段を登ります。全く風がなく、途中で藤森さんで
いただいてきた不二のご神水を飲みながら登って行きました。
少し開けたところからまだ階段があります。
二つ目の階段の中頃から、凄い圧迫感を感じました。
相性にもよると思いますが、霊感の強い人はしんどいと思います。
たぶん、私と相性があまり良くないようです。
藤森さんのご加護があったのかもしれません、最初に藤森さんへ行ったのも、
偶然ではなかったのかもしれません。不二の水も持たせてくださったのかなあとも
思いました。実は藤森さんは、私の産土神様に当たります。
とにかく山頂まで昇り、お参りして階段を再びおりました。
やはり階段を降りるごとに、圧力が弱くなってきていました。
秀吉公のお墓が豊国廟が京女の側にあるわけですが、
大変失礼ながら、秀吉公にはたくさんの側室がおられて、
京女は女性の学校、不思議なご縁があるのだろうかと。
そして、新日吉神社に向かいました。
新日吉神社がそこにあるのには、それなりの理由が後から
調べてわかりました。
・太閤の夢の跡
このブログによると、
豊国廟ができた頃は、豊国廟ー豊国神社ー祥雲寺ー方広寺ー西本願寺と並んでいました。
その後、徳川家康が政権を取った際に、それを分断というか、
破壊するような事が行われています。
その後に、新日吉神社や妙法院、智積院、西本願寺の隣に東本願寺、
となっています。
それほどの事を行うほど、人の業が深いのかと。
豊国廟が復活されたのは、明治の時代だったそうです。
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これは後日談ですが、京女の方が豊国廟での怪談を経験されています。
・京都府 豊国廟
行く前に読まなくて良かったです。
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